はじめに

はじめに

 2014年4月現在、日本もそれ以外の先進国も、どこかが莫大な借金を抱え、明確な経済の見通しが描けなくて苦労している。経済も、国の財政も、何をどうすれば上手く回るようになるのか、正解を叩き出した国はない。解決のためにあれやこれやと手を繰り出しているが、むしろどの経済圏も「次に借金をつけ回す先をどこに設定するか」、あるいは「借金を帳消しにするには誰を密かに犠牲にするか」に終始しており、逆に混迷の度が深まっているような状況である。

 日本には「アベノミクス」があるから大丈夫という楽観論もあろう。しかし「アベノミクスで大丈夫か」という懐疑的な意見も少なくない。経済のある程度の部分は「ムード」で動いているので、懐疑論が大きくなればアベノミクスは失速する恐れもある。アベノミクスは、現状では経済の全分野を豊かにするほどに思慮が行き届いているとは思えない。

 各経済圏での懸念が増大する中で、社会保障費の増大は特に大きな懸念材料であり、社会保障費がこのまま増大すればいずれは国が滅びるのではないか、国際的な競争力が削がれるのではないかという不安がどの国にもある。高齢化が進んで経済の見通しも不透明な日本では、その不安は特に強い。国が滅びるのを少しでも先延ばしするためには、社会保障をできるだけ「絞り込む」ことが必要だと、多くの人が信じている。

 たしかにこれまでの経済の枠組みの中で考えれば、そのような懸念は生まれて当然だ。そして根本的な打開策は、なさそうに思える。しかしそれは、これまでの経済の仕組みの中“だけ”で考えた場合である。経済の仕組みの中に、現在まだ存在していない「社会保障分野での労働に“正当な”対価を与える装置」を付加すれば、社会保障費負担は全く問題にならないまでは行かないにしても、相当程度緩和される可能性は高いと考える。

 本稿では、私が考えたそのような仕組みを一つ呈示する。着想することと、実現するための方法を考えることは順調に進んだが、果たしてこの方法が許されるのか、禁じ手ではないのかということの考察に、かなりの時間を必要とした。さまざまなパターンで思考実験を繰り返した結果、この方法はこれまでの経済構造を破壊するものではなく、実現可能性もあるのではないかと今のところ考えている。しかし私一人の思考では、必要な検証を尽くすことは不可能である。実現可能なことなのかどうかの判断は、これを読んでいる皆様に委ねたいと考えている。

 私はこの案を練るにあたって、これまでの経済の仕組みを私なりに解きほぐし、経済的価値が生まれる仕組みを一般的ないくつかの分野について考察し、現在各国が貨幣を増発するルールを、その理不尽な点についても一通りの理解をした上で、経済の仕組みについて考えてみた。その結果、社会保障分野の労働に対して経済的な価値が付与されにくい現在の経済構造は、構造的な欠陥を内包していると考えるに至った。

 日本の経済団体の偉い人というのは、多くの場合「製造業」の「輸出関連企業」のうち、成功している会社の中でも地位の高い人が務めている。こういう人たちは、言っては悪いが「頭脳労働のピークを過ぎた人」であることが多い。このような人たちは、さらに言っては悪いとは思うが、「日本の経済の根幹は製造業である」と信じており、それ以外の産業の経済価値を下に見る構造を保持しようと勉めているように見える。さらにこれは極めて個人的な意見ではあるが、あんな視野の狭い人たちに日本の経済を好きなようにされてたまるかと、私は思っている。

 現在の世界経済は、新自由主義の影響を色濃く受けている。新自由主義者は、新自由主義をさらに発展させて、豊かさが拡大したところでその一部を社会保障に回せば、社会保障分野も十分賄えるのだと喧伝し続けている。しかしそれを言い始めてずいぶん経つのに、一向に実現する気配がない。なぜかといえば、「経済が発展すれば社会保障分野も潤う」というのが、新自由主義の根本原理と相容れない考え方だからである。「社会保障のためには経済の発展を」という理屈は、新自由主義を浸透させる方便として盛んに述べられているだけで、現実の新自由主義者が考えているのは、他人のおかげで稼げた分が大半であるのに「稼ぎを横取りされてたまるか」という思考であるように見える。

 社会保障の実務に関して考えている人でも、せいぜい「社会保障分野でも金を儲けるにはどうするか」というところが関の山で、しかも「社会保障分野は生産性が低いので、自分が積極的に参入する分野ではない」程度にしか考えていないのではないか。

 新自由主義経済を進めていっても、集中した富を握っている人たちが社会保障分野に分け前を回す考えがないのであれば、社会保障の費用は税金や保険などによって、中間層以下の人から集めて生み出すしかないというのが、かつての民主党政権が進めてきた「社会保障と税の一体改革」の基本的な考え方である。しかし今後、高齢者人口の割合がますます増加し、生産年齢人口の割合が減少していくことは覆すのは難しく、一体改革をしても一時しのぎにしかならないのではないかという不安は拭えない。

 また、新自由主義に基づく世界経済というのは、本稿の第7章で述べるように現状ですでに「信用創造という“はったり”を担保としたバブル」になってしまっている。万が一新自由主義者が心変わりして「社会保障分野にだけは、十分な分け前をあげることにした」というようになったとしても、そのバブルがはじける事態となれば、社会保障への分け前なんて真っ先に切り捨てられる展開になることは、想像に難くない。

 このように考えてくると、現在「自分たちが考える経済の仕組みだけが正しい」と信じ込んで経済を牛耳っている人たちの思惑に縛られていたのでは、将来社会保障が成り立つのは難しく、成り立ったとしても持続可能な保障はないことになる。それでは社会保障が必要な人の生活どころか、最低限守るべき生命すら保障されないことになる。社会保障の割合が大きくなっても持続可能な仕組みを、考え出すべきである。

 今回の私の案が、最善の案だという自信はない。しかし、これまで「どうしようもない」と思い込んでいた閉塞感を取り払う、一つの有力な案ではあると考えている。ただ、これまでの経済には全くなかった仕組みなので、その案をただ出すだけでは理解と納得を得ることは難しいのではないか、荒唐無稽な案と映るのではないかと懸念して、まず最初はこの案を考え出すに至った私の思考を一通り述べさせていただき、その後に「新しい経済の仕組み」を呈示するという順序で呈示したいと思う。そのために前置きが長くなるが、しばらくお付き合いいただきたい。



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